更新日 2024年08月25日 | カテゴリ: 専門家インタビュー
肉体的なアスリートにとっては、マラソンとか、十種競技がシビアな競技ですよね。カウンセリングには精神のアスリートに似た面があって、「きく」ことがシビアな作業なんです。聞いていると、いろいろ連想がわいてしまって、かえって聞けなくなることがあるからです。おまけに、どこで相槌を打つかで話の方向が変わるし、相槌を「うん」「はい」「はぁ」のどれにするかでも話の流れが変わります。聞いたことをそのまま返したのでは聞いたことにならないこともあるし、何も返さないのが聞いたことになる場合もあります。
日本語の「きく」という動詞には、大雑把に5つの漢字を充てることができます。「聞く」「聴く」「訊く」「利く」「効く」です。漢字は中国語だから、日本語の「きく」に相当する中国語は5種類あることになります。日本語では1個の動詞なのにね…、だから、カウンセラーは同じ「きく」でも、TVマンが何台かのカメラを使い分けて編集するように、「きく」を1カメ、2カメ、3カメと随時使い分けながら「きいて」います。「きく」ことはある種の総合芸術みたいなもので、演劇とか音楽の演奏に似ています。絵画のような空間表現ではなく、時間を軸にした表現系のような。
また、「きく」には能の「シテ」と「ワキ」の関係に似たところもあるかもしれません。ワキ(聞き役)が完璧に演じなかったら、シテ(主役)は狂うことも舞うこともできません。だから「きく」というのは曲芸みたいなものだと思っていますよ。しっかりと「聞き」ながら、ときに耳をそばだてて「聴き」、必要なことは「訊き」、気を「利かせ」ると、相手に「効き目」が届く。そうすると、帰るときにクライエントは「あぁ話してよかった、聴いてもらったし、効いたー!」っていう感じがする。そんな仕掛けですかね。
そうですね。長嶋茂雄みたいに、「うー」ときたら、「がー」っと構えて、「ぼん」っとやってる、としか言い様がないのかもしれないよねぇ。修行時代に師匠にやらされたスパルタ・レッスンがあります。同じ事を大学院で院生たちにも体験してもらうことにしていました。
面接を1時間やるとします。その間、一切メモをとらない、ビデオも録音もしない。背水の陣で、一時間ひたすら「きく」んです。聞き終わったら、それを3倍の時間かけて書き起こすんです。3時間かけると、何月何日に誰と何処で会ったかといったことまで、だいたいのことは誰でも思い出せるものです。
ところが、書き起こしているときに、どうしても思い出せないことが出てくるのです。この話題から次の話題に、どうやって移っていったのかがどうしても思い出せない…誰もがそういう経験をするわけです。その思い出せないところが大事なのです。そこに聞き手のウィークポイントが反映されているからです。
聞いていると嫌になってくるような話題にはガードをかけて聞こえないようにしてしまうんでしょうね。聞いていると心が痛くなるから、自分が傷つかないようにガードをかけて聞こえなくする。だから思い出せないんですよ。例えば、クライエントが自分の親の話をし始めたとします。聞いているカウンセラーが親との間に確執があると、クライエントの話が自分の問題と二重写しになって聞こえてしまう。すると、後で面接内容を書き起こそうとしても、その部分だけが思い出せなくなるわけです。
だから、そのカウンセラーがどういうところで葛藤をおこしやすいかは、面接内容を書き起こしてみるとわかるんです。そういう内的なウィークポイントをカウンセラーは自覚できていないとダメなんですよ。それができていないと、クライエントに訳もなく苛立ったり攻撃的な態度をとってしまうことになるんですよ。
それを必ず通過しなきゃいけない。そう教わってきました。現在の趨勢(すうせい)がどうなっているのかはよく知りませんが…。僕は臨床歴がそろそろ45年経ちました。セラピストとして成長したのか退化したのか、よく分かりませんがね。いろんな経験をすると、川を流れ下る石ころも角が取れて丸くなるように、他人の目には性格が「丸くなった」ようにみえるかもしれません。
でも、石ころの側からすると、本来の自然な造形がえぐられただけのことかもしれませんね。職業病で性格が丸くなっただけのことで、本当は傷だらけなのかもしれません。セラピーに「完璧」はありません。終わりがないのですよ。長くやっていると、クライエントの話を聞いていて、ある種のパターンが思い浮かんでくるようになるんです。こうなったらこうなるんじゃないかな?という風に相手の話を先読みしまうんです。先読みして上手くいくこともありますが、読み過ぎるのはダメですね。
「心」って、何処にあるのかわからないでしょう。「心が痛い」と言いますが、「心の痛み」って、いったい何処が痛いんだと思いますか?「心」は胸にあるのか、頭にあるのか…。「心が痛い」よりも身体に痛みを感じるときの方が、精神の病態は重症ではないと言います。
「ここが痛い」って、場所が特定できる方がまだ安心なんです。目で見たり、触ったり、耳で聞けるものなら、まだ処置の仕様がありますが、手でも触れられない、目でも見えない、耳でも聞けないのが「心」です。「精神療法」とか「心理療法」とか言うけれど、「精神」とか「心」って、何処にあるんでしょうね。「心理療法」っていうのは、「心を」治療すること?それとも「心で」治療すること?
化学療法は「化学で(を駆使して)」治療するのであって、「化学を」治療するのではありませんよね。行動療法というのは「行動を」治療するのではなく「行動で」治療するのだと思います。心理療法もだから「心で」治療するんじゃないかな?
「心理療法」とか「精神療法」は「psychotherapy」の訳語です。「psycho」の語源はギリシャ語の「psyche(プシュケー)」で、これは本来「息」のことです。「息」という漢字には「心」がついていますね。「自 + 心」ですよ。「自」の語源は「鼻」です。自分のことを指差すとき、たいてい人は鼻をさしますよね。
つまり、「psyche(プシュケー)」は息で、それが鼻から出入りするところから、身体に対比された霊魂の意味が派生したんです。キリスト教でいうところの処女懐胎、「受胎告知」は、いろいろな画家が描いていますが、なかには、神様が息を吐くとその延長線上に鳩がいて、息がマリアの耳まで届く様がはっきり描かれたものもあります。神様の口とマリアの耳が息(霊魂)で繋がっているのです。
プシュケーが息なら、psychotherapyは「呼吸訓練」と訳した方がいいと思いませんか?「心理療法」というのは、息を整えることで何かを変える、そういう営みなんじゃないかな?息を整えることでモラール(moral)の変容をさぐるということなんだと思います。
モラールは日本語に訳せない。敢えて訳すなら「呵責(かしゃく)」じゃないかな?噛みつかれてぐさっと刺さり、離れないものです。だから、「自分に刺さっていたのはこれだったんだ、これが自分を苦しめていたんだ」という感覚を、「心の比喩」で暗示的に納得する手伝いをするのが精神分析であり、その感覚を教条的に半ば強引に変えようとするのが認知行動療法だと言えるかもしれません。
認知行動療法には、ずばっと情け容赦なくやる感じがありますね。痛み止めとか解熱剤に近いです。でも、効き過ぎる薬には副作用もあります。僕はクライエントにとっていちばん副作用の少ない、リスクが最小になるようなアプローチを探るように心がけています。
どうなんでしょうね。よくなる人は自分でよくなりますから。セラピストの役割は、お遍路さんのかぶる菅笠に書かれた四文字「同行二人」に似ているかもしれませんね。お遍路さんの同行二人は、「弘法大師」がいつも一緒という意味です。同行したり、引っ張ったり、押したり、それがセラピストの役割。
もっとも、セラピストは弘法大師さんほど偉いわけじゃない、むしろ、ダンテの「神曲」に出てくる、ダンテと共に地獄、煉獄を巡るヴェルギリウスのイメージの方が近いですかね。でも、ヴェルギリウスほど物知りでもないか(笑)。
アメリカのブラックジョークで、「内科の医者は何でも知っているけれどいつも手遅れになる。外科の医者は何も知らないけど何でもやる。精神科医は何も知らないし、何もできない」というのがあります。カウンセラーやセラピストは精神科医以下かな?それでも、クライエントは自然によくなる人はよくなっていくんです。
そこに誰かがいるという感覚、これがクライエントにとって大事なんじゃないですかね。セラピーという言葉の語源はギリシャ語の「therapeia(テラペイア)」で、もともとは「抱っこする」という意味です。
「抱っこ」にもいろんなパターンがあります。小さいときの「抱っこ」は、親が子どもと向き合う卑近距離での「抱っこ」。少し成長すると、子どもが親の膝に後ろ向きに腰掛けて一緒にテレビを見る「抱っこ」に変わります。精神分析には、クライエントがセラピストに後ろ向きに「抱っこ」されているイメージがありますね。どんな風にどんな距離でクライエントを抱っこするのがいいか、それを思案するのがセラピストの仕事だと思います。
「narrative(ナラティブ)」という言葉は日本語に翻訳しにくい。「物語ること」と訳されたりしますが、語源は「知る(know)」や「認知(cognition)」と同じです。「語る」と「知る」は語源が同じなんです。
「知っていることを語る」のではなく、「語られなければ知ることができない」ということです。人は、「語ることで知る」んです。だから、「事実を知る」よりも「事実をどういうストーリーで語る」かに重点を置き、それを追求するのがナラティブセラピーであって、心地よいストーリーに仕立てることが治癒的なんです。
「真実」というものが在るかどうか、僕にはわかりませんが、もし在るのだとしたら、それとどういう距離で折り合いをつけるかが大事なんでしょうね。人間誰しも、生まれ持った定めというか、方程式でいうところの「定数」みたいなものを持っています。どうにもならない宿命みたいなものです。それに気づくか気づかないか。気づくことが幸せなこともあるし、不幸せなこともあります。
「幸」という漢字は象形文字で、語源は「手錠」なんです。「幸」という漢字を横に90度倒してみたら、形が手錠に似ているのが分かると思います。死刑にされてもおかしくない罪を犯したのに、手錠をかけられ晒し者にされる程度の罰で許された。だから、ありがたい、幸せだと思え、といった意味らしいですね。
「幸せ」を英訳する場合、「happy」と「felice」の二種類の語が浮かびます。「happy」は自分で掴み取る達成感にウェイトが置かれた言葉ですが、「felice(恩寵)」は、これがお前の幸せなのだと神が人間に授ける恩寵のイメージを重視した言葉です。ルネサンス以降現在に至るまで、われわれは人間中心主義に偏った「しあわせ感」に馴染んでしまったので、どうしても「happy」の側に傾いてしまいますね。
でも、仕切られると自由がないようで嫌ですが、反面、ほっとするところもありませんか?また、仕切られると一線を踏み越えたくなるものです。その人にとって、仕切られることが安堵感に繋がるのか、仕切られない、自由でいることが安堵感に繋がるのか。何がその人にとって幸せか、何が目標か、それを見極めることが大切なんでしょうね。
ホームランを打つには何をしたらいいと思いますか。それには、まず、打席に立たなければいけません。打席に立っているだけではだめで、バットを振らなきゃいけません。振った三振するかもしれません。
でも、振らないかぎりホームランはありません。まずは、打席にたって、バットを振ってみたらどうですか、そう言いたいですね。バッターにとってはピッチャーとの相性が大事なように、カウンセリングでも相性が必須ですがね。
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