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認知行動療法家は笑う〜第2部:認知行動療法はなぜ研究を重視するのか?

公開日 2016年10月17日 |
カテゴリ: 専門家インタビュー
認知行動療法家は笑う〜第2部:認知行動療法はなぜ研究を重視するのか?

認知行動療法家と力動的精神分析家の特別対談、第1部では、「説明モデル(入口)」と「自立概念(出口)」の違いを参照しながら、ヒーリングと認知行動療法は何が違うのか?という点について考察を深めていきました。第2部では、認知行動療法における「研究」の意義を考察しながら、認知行動療法(CBT)の持つ世界観に迫っていきます。

参考:認知行動療法家は笑う〜第1部:認知行動療法とヒーリングは、何が同じで、何が違うのか?

[自分の体験]のヒーリング、[臨床経験]の力動系、[科学的研究]のCBT

東畑

ヒーリングと心理療法の説明モデルの違いを考える上で面白いのは、認知行動療法の「研究」との関係性だと思います。認知行動療法の人は、エビデンスを重視しますが、そのエビデンスはリサーチ、つまり研究を通じて作られます。それだけじゃないです。先ほどのお話では、認知行動療法の説明モデルも研究によってつくられます。

研究ということが、認知行動療法という文化の中核にあるということです。これをどう考えたらいいのかというのが知りたいところです。

少し補助線を引くと、各治療が説明モデルをいかなる手続きから導き出すかには個性があります。このとき、その手続きのありようがそれ自体として説明モデルの内実を規定しているのではないかと考えることができます

例えば、ヒーリングの場合は、「自分の体験」が説明モデルを得るための最重要な方法です。だから、体験談が特権的な方法になります。

一方、力動的心理療法では「臨床経験」が大きな価値を持ちます。臨床で体験したことが説明モデルの原資になります。ですから、事例研究が方法となります。

それに対して、認知行動療法では科学的研究が特権的です。ここから、認知行動療法の説明モデルや人間観の特性が見えるのではないかと思ったのです。

それは手続き的な差異が治癒をどう変えるかという問いといってもいいかもしれません。

認知行動療法の「品質保証」としての実験・研究

小堀

日本もイギリスも日付が変わりました。朝から、論文リジェクトの通知を (また) 受け取った、小堀修です。

説明モデルの原型がどのように作られるのか。昨日の話と重なるところもありますが、エキスパートが、困難な複数の事例に出会って、そこに共通点を見いだしたときに、仮説がたてられます。そこから、その仮説を支持する、膨大な心理学の知見を統合して、論文を書きます。これは、気の遠くなるような、でも、エキサイティングな作業で、一部のエリートにしかできないと思います。さらに、自分たちの研究グループで、そのモデルを検証するための実験を始めます。

これらの実験は、AするとBになる、という病的な行動の検証だけでなくてAせずにCすると、Bにならない、という、治療技法の開発も同時に進んでいきます。例えば、自分の内側に注意を向けて自意識を高めると、スピーチするときに頭が真っ白になる、を検証すると同時に、自分の外側に注意を向けるような練習をしておくと、スピーチするときに、頭が真っ白にならない、という技術の開発も進みます。この、「自分の外側に注意を向けるような練習」が発展して、技法になっていきます。

つまり、病的な行動が生起するような実験操作と、病的な行動が生起しないような実験操作を、同時に開発します。このような研究が重要視されるのは、イギリスのCBTが、行動科学の伝統を大切にしているからだと思います。これは、動物を対象にして、報酬や罰を与える/取り去る、頻度やタイミングなどを変えることで、ある行動が生起する頻度を高めたり、低めたりしていたことに、似ていますよね。CBTの学会は1つしかなくて、英国行動療法学会が、英国行動認知療法学会に「内部進化」したのも、示唆的です。

さて、これらの技法を組み合わせることで、治療プロトコルとなり、臨床試験、ようやく、エビデンスにつながっていきます。基礎的な実験が、治療プロトコルの品質保証になっているんですね。

認知行動療法の基礎研究に「大発見」はあったのか

東畑

まず、CBTの説明モデルは「実験」によって、実証される。そのことによって理論のパンテオンに入ることができる。これは確かに、心理療法の中では、認知行動療法に特徴的なものです。

しかし、認知行動療法の門外漢として素朴に疑問に思うのは(本当に素人なので、気を悪くしないでください)、そのモデルが研究手続きを経ていることには臨床的にいかなる意味があるのかということです。

というのも、薬物療法の世界ではメカニズムの大発見があって、治療の世界を一変させるというのがありえますが、認知行動療法の基礎研究はむしろ「あるある」ネタを扱っているように思うことがあるんです (本当に素人意見ですいません)。というより、基礎研究という設定自体が、そこで得られる実証される知見を「あるある」に絞っていくというところはあるかもしれません。これは心理学研究の宿命ですね。

つまり、こういうことです。確かにパブロフやスキナー、バンデューラの大発見はありますが、先の先生のお話しでは臨床の知恵の検証という性格が認知行動療法にあるとすると、基礎研究はむしろ臨床を後追いしているとも思えます。そのとき基礎研究を経ていることは、臨床をどう変えるのだろうという疑問です。

二つ仮説があります。

ひとつは、認知行動療法が科学的検証過程による太鼓判そのものにオーラがあり、効果があるのではないかということです。

もうひとつは、認知行動療法にあっても、ケースフォーミュレーションという名人芸ーArtが治療的要因として非常に大きいと思うのですが、基礎研究で実証されるようなこころのメカニズムの「あるある」感が、認知行動療法の敷居を大きく下げ、そしてその治療効果を増しているのではないかということです。それは説明モデルの共有を容易にし、そのこと自体の治療的価値は大きいと思ったのです。いずれも、専門外からの意見なので、教えていただきたいと思います。

心理学

認知行動療法にとって「研究」は本質と結びついている

小堀

世紀の大発見ではないけれど、臨床を変える小さな発見は、ときどき出ています。CBTの実践者は、研究の要約しか見聞きしないでしょうし、CBT以外の人には、もちろん、伝わらないところですよね。

例えば、強迫性障害における侵入思考の研究は、わりと大きな発見でした。強迫観念と同じ内容の思考やイメージを、健常者の人も体験していることが、研究で分かった。それを侵入思考と呼ぶことにした。侵入思考が反復的で苦痛になったものが、強迫観念だと。  すると、奇異な思考を持つことはいたって日常的な体験だけれど、何がそれを反復的で苦痛にするのかを明らかにしていったら、強迫性障害の認知行動モデルが誕生した。あなたの体験している思考は、異常なものではなくて、誰もが体験するものなんですよ、という心理教育ができるようになったのも、大きな変化でした。

自分の研究で恐縮ですが、強迫性障害の家族に焦点を当てて、調査をしたり、インタビューしていったところ、家族がどのように病理に巻き込まれているのか、そして苦しんでいるのか、共通点が見えてきました。臨床場面では、家族を主人公にした物語を聞くことはできないので、これも研究の意義があったと思っています。そして、家族に対する心理教育の仕方、家族に対する共感の仕方が、少なくとも自分のなかでは変わっていきました。

生物学的な治療や研究とはレベルが違いますが、「研究が心理療法の実践に影響する」というのは、実はすごいことだと思うんです。他の心理療法では、あまりない気がします。

研究の別の側面としては、他にもいくつかあります。まず、ご指摘のとおり、説明モデルが、そして、介入技法が、不特定多数の人たちにテストされている。行動科学の伝統にのっとって、実験で検証されたモデルや技法しか「認知行動療法」として普及していかない。だから「あるある」感を持ってもらいやすい。

とはいえ、CBTの実践において、「ちょっとやってみましょうか」的な実験を誰もがやっているわけではない。自ら理論構築や実験をしている人たちはよくやりますけど、実践オンリーの人たちは、ワークショップで講師から習って、ようやくやるようになる。研究している人も、というよりしている人のほうが、Art を持っている、ということもあるんですよね。

東畑

研究している人の方がアートをもっているというのはなるほどと思いました。それは説明モデルをきちんと生身で生きている人ほど、それを臨床で柔軟に運用できるということですね。

小堀

あと、研究をしたり、原著論文を読んでいる人のほうが、表現が柔軟です。専門用語の言語体系と、実践での言語体系の2つを意識して、いつも頭のなかで翻訳作業をしている。教科書やワークショップでCBTを習うと、著者や講師が翻訳した表現に縛られてしまう。そして「CBTの言葉は固くてしっくりこないなあ」とぼやいたりする (笑)。

東畑

それくらい、認知行動療法にとって、研究って本質的なのだと思います。それは臨床と深く結び付いていると思います。エートスとして。

認知行動療法における研究と臨床の結びつきって、いわゆる一般的に捉えられているような基礎と応用の関係ではないように思うんです。ここが知りたいところです。シャーマンが霊をあがめるように、認知行動療法家は実証的手続きを崇めていて、それがゆえに治癒力を発揮しているのではないかって思っちゃったりするのですが、どうでしょう。

***エートス:ある集団で共有している精神性

「認知行動療法的アプローチ」はどのくらい認知行動療法なのか?

小堀

院生のころの話ですが、イギリス人のCBTのワークショップを受けていて、いつも2つのデータを見せていましたね。ひとつは、いわゆるEvidenceで、効果がどれだけあるか。もうひとつは、Empirical Supportといって、モデルがどうやって検証されたか。受講者は、そこはスキップ!と思っていたかもしれません。

でも、講師にしてみたら、この技法は、こういう実験が背景にあって、これらを組み合わせた治療プロトコルは、何度も臨床試験で効果を検証してきたとか、そういうメッセージを伝えたかったんでしょうね。この崇め方については、行動科学の伝統を受け継ぐイギリスの臨床心理士と、多様なCBTが輸入される日本の臨床心理士で、温度差があると思います。

イギリスのCBTは、Evidence以上に、Empirical Supportを重視して実践している。だから、セラピストのプロフィールに「認知行動療法的なアプローチを取り入れることがあります」って書いてあると、それは、どのくらい認知行動療法なんだろう?ツッコミをいれたくなることがあります (笑)。

東畑

「それは、どのくらい認知行動療法なんだろう? ツッコミをいれたくなる」という小堀先生のお話、ここはすごい面白いですね。やはり、認知行動療法には、プラグマティズムを超えた、確かな思想があるように思います。

小堀

もうひとつの研究の側面は、多領域から参入しやすいことが挙げられます。臨床実践に影響するような研究は、ごくごく一部でしかない。ただ、CBTの研究では、学習心理学だけじゃなくて、社会心理学、個人差心理学など、いろんな方法論が使える。さらに、発達心理学、認知神経科学、(今後の対談で詳しく出てくる) 健康経済学も、研究活動に参入している。

アイドルグループのリーダーを、芸能プロダクションが決めるのではなく、ファンの総選挙によって決めると、応援したくなるし、身近に感じますよね。その結果、ファンも増える。CBTも同じように、いつのまにか認知行動という言葉を使っているような研究者を、増やしていったのかもしれません。

最後に、後ほど詳しく対談しますが、研究することが人間教育にもつながっています。イギリスの臨床心理士のコースは、博士課程なんですけれど、博士研究を通じてリーダーシップやマネジメントを身につけて、自分の、チームのパフォーマンスを継続的に高めていく人材を育てます。

正規分布

「みんな神経症」と考える精神分析、「正規分布」を想定するCBT

東畑

先ほど、侵入思考の話があり、それは健常者にもあるという話しでした。説明モデル作りのための研究は、病者ではなく、健康な人を対象にして研究をするということでしょうか?

というのも、ここに認知行動療法で作られる説明モデルの質があると思うからです。精神分析は逆で、健康な人も本当は病者と同じメカニズムを基本的に用いていると考えていると思います。みんな、神経症という考えですね。

小堀

臨床研究の場合、特定の母集団になります。先ほどの例だと、強迫症の家族ですね。そのような臨床群と、対照群として健常者を比べることもあります。より記述的な研究だったら、アナログ研究といって、健常者だけを対象にすることもあります。人間の行動の程度は、正規分布すると想定しているからです。

不適応的な行動 (自動思考や症状) を、正規分布すると仮定したり、正規分布するような測定ツールを使うことで、多領域で研究が活性化しやすくなる。研究が活性化すると、研究資金も回るので、後ほど詳しく対談しますが、あることがやりやすくなる。最後に、実践でも「あなたの体験していることは異常じゃなくて、誰もが体験するもので、その程度が強いんです」というメッセージを伝えて、ノーマライズできる。

学問としての心理学では、正規性を想定しているし、正規分布しないデータは、正規分布するように修正するような統計的手法もあったと思います。さらに「行動が正規分布する」としたほうが、予防プログラムを作りやすくなり、多くの人にCBTを普及させやすくなる。

これが、ヒーリングや、力動的な人からすると、新鮮なんでしょうね

東畑

正常が統計的に定義されるというのが新鮮です。力動的心理療法、それからブリーフセラピーでも、健康とか治癒像をもう少し理論的、倫理的に示しているように思います。

そして人間を正規分布するものとして捉えるというのも非常に面白いところです。そして、ここで、認知行動療法がいわゆるアカデミックな心理学と一続きであるというのはよくわかる気がします。

確かに僕らは互いに正規分布の一部を担っています。でも、同時に、そういう風に人間を捉えることはそれほど一般的ではない気もします。正規分布する人間、これは一体人間のどういう部分を現しているのだろうと新たな謎が湧くところです。


編集者雑感

今回は、認知行動療法と科学的研究との関係性というテーマを通じて、認知行動療法が背景に持つ世界観について対話が進められました。認知行動療法は「数値化され、正規分布するものとしての人間」を想定しており、だからこそ継続的な研究と、実践へのフィードバックがくり返されています。このように「科学的方法論」という現代の共通言語をもとにつくられているからこそ、幅広くその意義が理解され、広汎な普及にもつながってきたと言えます。

では、人間の心のどれくらいが「科学的」に測定可能なのか。異なる個体間でそれを並べて比較することは、何を意味するのか。認知行動療法と比べれば伝わりづらい価値体系を持つ他の心理療法は、これからどうなっていくのか。そんな問いも生まれてきます。

一般的には「カウンセリングなんてただのおしゃべりでしょ」あるいは「話聞くだけでしょ」と思っている方も多い中で、ここで語られたような心理療法に通底する倫理や哲学、世界観の違いは、一般の読者の皆様にはどのように感じられるでしょうか。フロイト以来慎重に深められ、広がってきた心理療法の世界には、私たちが思っている以上の深遠さがありそうです。

援助が必要なときにこの深みに触れて心理療法を選択することは、現実的には難しいはず。さらに正解を確認しようのない世界だからこそ、臨床家ひとりひとりの倫理や価値や能力に依存せざるを得ないという点で、心理療法家は「ただのおしゃべり」とはかけ離れた責任を伴う仕事なのでしょう。対して、野の医者やヒーラーたちはどれだけここに自覚的でいられるのでしょうか。治療という文脈の中での「心理療法家」の本質を見たような気がします。

人のこころが「他者との関係性の中を生きる主体」である以上、病理のあり方も、心理的援助のあり方も、社会的・時代的な文脈なしに語ることはできません。第3回は、認知行動療法が急速に普及した背景にある社会的な力学、そして変化する社会の中で心理療法自体が生き残っていけるのか。そんな対話に続いていきます。第3回もお楽しみに!

対談の感想、ご意見、リクエストなど、お気軽にお送りください。こちらまでお待ちしています!

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