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認知行動療法家は笑う〜第1部:認知行動療法とヒーリングは、何が同じで、何が違うのか?

更新日 2017年02月16日 |
カテゴリ: 専門家インタビュー
認知行動療法家は笑う〜第1部:認知行動療法とヒーリングは、何が同じで、何が違うのか?

同じ臨床心理学といえども、その内部は多くの流派に分岐しています。小堀修先生は、認知行動療法(医療でも保険点数が認められており、主に思考や認知、行動の変化に焦点を当てることが多い)とスポーツ心理学を専門としています。東畑開人先生は、力動的心理療法(ユングやフロイトに源流を持ち、無意識の領域に焦点を当てることが多い)と医療人類学(様々な文化の様々な治療を比較して、「治療とは何か」を考える学問)を専門としています。

小堀先生と東畑先生は、イギリスのSwanseaで出会い、そこで認知行動療法について議論を交わしたそうです。帰国後、東畑先生はヒーリングの世界の癒しについて研究した近著「野の医者は笑う」を小堀先生に送り、そこから対談が始まりました。

臨床心理学とヒーリングの違いとは何か?

小堀

「野の医者は笑う」をウェールズまで送って頂き、ありがとうございました。この本を読んで連想したことから、対談を始めてみましょう。

この本の中では、著者自身が様々なヒーリングを体験しながら、「心の癒しとは何か」ということを、臨床心理学/心理療法との比較を通じて見出そうとしていました。私も臨床心理士なので、やはりヒーリングと比べたときの臨床心理学/心理療法の「特異性」って何だろう、という点はとても気になります。

東畑

ありがとうございます。比較という方法は、「どこまでが同じで、どこから違うのか」という問いの両方を問うことによって成立すると思います。拙著では、まずは心理療法とヒーリングの共通点を扱い、最後に少しだけ心理療法の特異性を扱いました。ただ、そこでの心理療法は実は私の背景にある力動的心理療法をモデルにしています。ですから、認知行動療法の専門家にお話を伺えるのは、非常に楽しみです。

なにより、最近認知行動療法に興味をもっていました。今、とても普及しようとしていますよね。それはなんでだろう?って思っていたんです。その謎が解けるといいなと思います。今日はどうかよろしくお願いします。

小堀

よろしくお願いします。最初に聞いてみたいことは、このヒーリングが自分に合っている、と感じた人は、どのくらいの頻度で、同じヒーラーのところに通うものなのか、という点です。心理療法のように、一定の頻度で、繰り返し続けることが、合意されることがあるのでしょうか。

東畑

ヒーリングも様々です。単発のセッションでのマジカルな治癒の話も多いですが、複数回通うヒーリングもあります。ですが、基本的には精神分析的心理療法に比べればまったく短期ですし、ブリーフセラピーや認知行動療法のように治療計画として構造化されていることは少ないように思います。これは確かに大きな違いです。

その背景にあるのは、中核的な人たち(ヒーリングに深くコミットした人)の場合、各セッションではなく、セッションを受けた人がそのヒーリングのスクールに通うことで治癒を得る構造になっていることです。セッションに治療効果があるというよりも、「治療者になる」事の方に大きな価値があるということです。だから、セッション自体はそれほど構造化されていないのではないかと考えます。

認知行動療法(CBT)における「説明モデル」とは

小堀

治療者-クライアントとして出会うよりも、師匠-弟子として出会うほうが、人としての結びつきも強くなるのかもしれませんね。アロマとかマッサージとか、継続しなくてもいいので、気軽に通えることがよさでもありますよね。 この継続性の違いは、「野の医者」で触れられていた、「科学としての臨床心理学」にもつながっていると思うんです。

いきなり、科学、という枠組みを持ち出すと、話が抽象的になってしまうので、「説明モデル」の違いを具体例に考えてみます。

***説明モデル:患者や家族や治療者が、その病気の原因や発症状況、症状の性質、病気の経過、治療方法について抱く考え方。

「野の医者」では、ヒーラーは語る、語りすぎる、という章がありました。ヒーラー自身が体験/代理体験したミラクルを語りまくる、ところですね。そこから推測されるのは、ヒーリングの説明モデルの共有が、一方向的で、かつ単発 (あっても複数回) で終わっているのではないか。この、説明モデルの扱い方について、認知行動療法とヒーリングを比べると、面白そうな気がします。

野の医者は笑う

認知行動療法における説明モデルの3つのレベル

認知行動療法も多様に枝分かれしていて、僕が研究したり実践したりしているのは、いわゆる第2世代の認知行動療法(CBT)で、特に1980-90年代にイギリスで生まれたものです。CBTでは、研究と、実践と、2つの領域で、説明モデルが利用されます。まずは実践のほうから始めましょう。CBTの実践において、説明モデルには、3つのレベルがあると考えています。

1つ目は、心理教育です。これは、研究で開発されたモデルを、実践むきに作り直して、セラピストからクライアントに語るものです。例えば、ある心理学的問題が、一般的に、どのように発達して、どのように維持されているのか。どうすれば回復するのか。解説していきます

同じ問題を持った人には、同じような話をしますが、一方で、そのクライアントに合わせて、少しばかりカスタマイズします。例えば、野球が好きな人だと分かっていれば、野球のメタファーを使ったりします。ですから、情報収集の段階では、その人の困っていることだけでなく、どんな人なのか、長所や、好きなことも、聞くようにしています。

2つ目のレベルは、仮の見立て(Preliminary Formulation)です。紹介状を読んだり、インテーク(受理面接)が終わった段階で、(他の)セラピストがセラピスト自身に問いかけて作ります。これは他の心理療法とも共通しますよね。どのように問題が発達して、維持されているのか。どんな治療方針になるのか。仮説を立てます。

ここからは、他の心理療法とは少し違うかもしれませんが、さらにCBTは、だれが、どこで、セラピーをするのかまで、仮説を立てます。初心者むきのクライアントか、エキスパートむきのクライアントか。この施設でセラピーを実施するのか、他の機関にリファーするのか。

説明モデルと、クライアントから得た情報と、これまでの臨床経験を統合して見立てを作ったあとに、クライアントとセラピストのマッチングをします。インテークをしたセラピストと、セラピーを実施するセラピストが異なることが、他の心理療法よりも多いと思います。

3つ目のレベルが、クライアントと恊働開発する、ケースフォーミュレーションです。先ほど作った「見立て」を、いったん忘れて、今度は、クライアントと対話をしながら、問題が発達し維持されているメカニズムを明らかにしていきます。同じように、クライアントからの情報、説明モデル、臨床経験を統合しながら、 ホワイトボードにダイアグラムを書いて共有します。これは、最初のセッションで、とりあえず作ってしまいます。

なぜ、最初に作ってしまうかというと、この作業を通じて、クライアントが「どうして問題が続いているのか」を理解するだけでなく、「こうすればよくなるんだ」と、希望を持つことが大切だからです。ここは、ヒーリングと共通するところかもしれません。

ここからは、ヒーリングと異なるところだと思いますが、CBTでは、セッションが進行するにつれて、適宜、このフォーミュレーションを修正していきます。そのたびにダイアグラムを書き直して、クライアントと共有します。そしてクライアントとセッションの展開に応じて、説明モデルがカスタマイズ/修正されていく。

このあたりが、科学の営みを模倣しているところで、ヒーリングと異なるところなのかなと、仮説を立ててみました。

研究の領域においては、よりいっそう、説明モデルの開発と修正が、「持続的に」行われています。ヒーリングだと、創始者の作った説明モデルが、長く生き残ることが多いと思います。CBTだと、僕のような末端の者でも、説明モデルの発展に貢献しているような気がするわけです。

東畑

非常に刺激的な話です。あとでゆっくり思ったことを言いたいと思うのですが、一つだけ質問です。セラピーの中でクライエントと二人で作る個別の説明モデルと、研究などで確立されて定式化された説明モデルの関係はどうなっていますでしょうか?

教科書に載っている説明モデルと、実際の臨床の場で語られる説明モデルの関係ですね。

小堀

互いに影響しあう関係ですね。実践のなかで作られたモデルが、今度は理論や研究の対象になることがある。例えば、いわゆる難治例があったときに、従来のCBTでは良くならず、エキスパートにリファーされます。そのエキスパートが、試行錯誤の末、クライアントが回復します。

そうすると、その事例で作られたフォーミュレーションが、新たな理論モデルとなって、研究の対象になります。このような、事例 → 理論 → 実験 → 臨床試験 → 臨床試験に反応しなかった事例 → 理論 のリンクが、第2世代のCBTの特徴です。

「説明モデルをいかに共有するか」に認知行動療法の人間観が現れる

東畑

説明モデルという考え方は、医療人類学者のクラインマンが言いだしたものですが、彼の最初の本「臨床人類学」で、説明モデルは臨床のコミュニケーションの中で、微妙に変化していくと書かれています。

教義を押し付けるような形では、臨床は成立しないからです。あ、でも、宗教者も微妙な言い回しで、説明モデルをうまいこと変形するので、そのあたりは一緒かも知れません。治療者は患者に合わせて説明モデルをうまいこと修正し、患者もまたコミュニケーションの中で自分なりにアレンジして説明モデルを取り入れていきます。その距離がうまく近づくと、いわゆる治療同盟が出来るという話です。

ですから、説明モデルの修正は、治療の一般理論であって、認知行動療法に特別なものではないと思います。それはもちろん、ヒーリングでも同じではないかと思います。治療関係の中で、説明モデルは変形されて、共有されるわけです。

イワシの頭を拝むと、イワシの頭大明神が現れて病気を取り除いてくれるという説明モデルも、言い方次第では共有されることもあるかもしれないということですね(室町時代くらいにはあったかもしれません)。

そして、ここのスキルがいわゆる臨床技能というやつです。そうやって、クライエント個人個人に合わせてなぜ問題が起こっているのかを定式化して、ちゃんと説明するということです。ここに臨床家のアートというか腕があります。

面白いことに、ジェローム・フランクという精神科医が治療の一般理論として、「説得」の重要性を指摘しています。それは説明モデルをいかにクライエントと共有するかということです。ちゃんと相手を説得して、説明モデルを共有することで、治療効果が表れるよ、という話しです。イワシの頭で癒されるのもこれですね。

だけど、これはいわゆる「説教」のように、頭ごなしに教え込むことでうまくいくわけじゃなくて、多くは潜在的な説得という形を取ると思います。つまり、真に「説得された」って感じるのは、人に言われてそう思ったときじゃなくて、自らそういう風に思うようになったというときだからです。

その技法は色々です。多くは治療者の態度に説得力が滲むわけですし、話の聴き方や解釈の仕方に説得力があって、見えない形で説明モデルは伝達されるのだと思います。

認知行動療法の場合、「仮説をdiscussionして作る」という技法を通して、説得がなされるのかなと思いました。なんというか、ビジネスミーティングみたいな感じがあるような気がしたんです。治療関係で醸し出されるそういう雰囲気みたいなものが、「認知行動療法がどういうものか」を伝えているように思ったわけです。


実はここは大きな分岐点かもしれません。それは治療関係が師弟関係ではなく、ある種のチーム的な関係として想定されているということです。

さらに言えば、「認知行動療法はセルフヘルプである」という考え方もあるように、認知行動療法の人間観や健康観というのは、そういった「自立」の思想に立脚していて、それが理想的な治療関係のありようとして具現化されているということもあるかもしれません。

ヒーリングと心理療法における「自立」概念の違い

ただ難しいのは、おそらくヒーリングの人も「自立」を重視します。精神分析もそうです。ただ、この「自立」の中身が違うのだと思います。精神分析の場合、「自立」に込められているのは、他者との分離の悲しさをしっかり引き受けられることという意味がありますが、ヒーリングの場合、「自立」はセルフラブの意味が強いように思います。「アナと雪の女王」の「ありのままでー」っていう感じですね。

このあたり、認知行動療法ではどうなのだろうと思います。「自立」は心理学的治療文化の共通の価値だと思いますが(心に問題解決を求めるというのは個人主義抜きにはありえません)、その「自立」の色彩は様々だと思うからです。

患者が「好奇心を持った科学者になる」ことがCBTにおける自立につながる

小堀

最近は聞かなくなりましたが、CBTではクライアントに好奇心を持ってもらい、科学者になってもらう、なんて言い方をしていました。仮説を立てて、自分で体験的に理解して、納得できないことについて次の仮説を立てる。例えば、強迫的な確認を減らす前に、「もっともっと確認したらどうなるか、試してみましょうか」なんて実験をしたりする。

この「好奇心を持った科学者になる」はCBTにおける自立、につながっていきます。

東畑

非常に面白いです。聞かせてください

小堀

CBTが目指しているのは、対外的には「症状評価尺度の低下、診断がなくなること」であって、これはCBTでいうところの、「治る」ことの表面的な定義です。


セラピーのなかで何を目指しているのかといえば、それは、「今の自分よりも少しだけActive、主体的/能動的、になること」と言えるかもしれません。後ほど詳しく話しますが、これは、CBTがブリーフセラピーとして機能するため、つまり、早い段階で解決の道筋が見えて、終結後も効果が持続するために、実践のなかで作られていった自立の姿です。

少し古い価値観ですが、科学者って、自然に圧倒されたり振り回されたりするだけじゃなくて、自然に働きかけようとしますよね。例えば、防波堤を立てるなど、災害を予測して防ごうとする。クライアントも、世界や人間関係に振り回されるだけじゃなくて、少しずつ、仮説を立てて、実験して、自分から働きかけてみる。その結果、自分を応援する人や頼れる人(自分自身を含みます)が増えていって、自分をサポートするネットワークができていく。セラピストは、そのネットワークの縮小した一部になっていく。これは、成田善弘先生の「治療者が治療者の仕事をしなくなっていく」に近いものです。

誰かが手を差し伸べることをずっと待っているだけではなく、自分から他者に働きかけていくのは、力動的精神療法の「分離の悲しみを引き受けること」に近いかもしれません。最終的には、ポジティブ心理学の目的に近いのかもしれませんが、自分の素質や持ち味を理解して、それらが生きる環境を見つけたり、そのような環境を作っていくことを目指します。

セラピーを通して、長所とか、最近はやらなくなっていた趣味とか、そういうのを見つけたり、長期目標 (数年後どうなっていたいか) を設定するのも、そういった背景があるからだと思います。

破壊的になりうる「ありのままで」という主体性

話を先ほどのFrozen(アナと雪の女王)につなげます。エルサは、ありのままの自分でいいのよーと洞察を得ますがまだ雪山に引きこもってる (笑)。自分の力で誰かを傷つけるんじゃないか、みんなに気味悪がられているんじゃないか、娑婆には戻れないんじゃないかという強い不安が残っている。

CBTは、不安を減らしながら、魔力をある程度コントロールできるようにして、その魔力が生きる環境を作っていくのかもしれません。エンディングで見るように、スケートリンクを作ってみたり、オラフの雪雲を作ってみたり、シンデレラの特典映像では、氷の彫刻まで作っている。

東畑

お話を伺ってCBTの謎が余計に深まりました。なんでしょうね、これはなんなんだろうって、うまくつかめずにいます。僕が何をつかめていないのか、明確にしたいと思います。

さきほど、小堀先生は「今の自分よりも少しだけActive (主体的/能動的) になること」が認知行動療法の治癒であり、健康像だとおっしゃいました。そしてエルサの魔力をコントロールすることだとおっしゃいました。

表面だけ取れば、それは文句なく「よきこと」のように思います。ですが、それはやはり現代との相関で魅力を放っているように思うんです。

というのも、エルサの例で言えば、彼女は自分から漏れ出る攻撃性に苦しんでいます。それは望んでいないのに、大事な人を傷つけて、色々なものを損なっていく力です。だからこそ、「ありのまま」になると、彼女はアレンデールを冬にして滅ぼしかねず、人を寄せ付けない氷の城を創り出します。あれは彼女の攻撃性の象徴のように思います

実際、シンデレラと一緒に上映された短編映画では、エルサはアナの誕生日を祝おうとして、結局風邪をひいて、誕生日を台無しにしてしまいます。彼女はまだ人の幸せを喜べず、攻撃してしまうともいえます(不幸なことに、彼女は自分のことも攻撃してしまうのですが)。

「主体的であること」が破壊的に働くこともあるわけです。それはもちろん、環境次第で創造的に働きます。

ある種の有能な経営者にはそういう人もいるかもしれません。彼のもっている主体性は、競争的な環境では創造的に働きます。才能があり、応援してくれる人がいれば尚更です。

ですが、そのような場面では光り輝く主体性は、家庭などの親密な関係性では逆に破壊的に働くかもしれません。そして、最終的に自分自身を苦しめるかもしれません。

何が治癒であり、健康であるのかは、価値観が問われることだと思います。

僕自身はエルサの場合の健康とはやはり破壊的なものそれ自体が和らぐことだと思うわけです。ここは僕がポストモダンになりきれないところだと思います。

その意味で、CBTには、プラグマティズムがあるように思うんです。「ある環境の中で、うまくいってるならまあいいじゃん」という感じです。価値判断を機能と結果によって測ろうとする思想ですね。

これは実は僕の中にもあります。ただ、力動的心理療法の場合は、プラグマティズムを超えた何かがありますね。そこにはやはり何らかの理想や規範や倫理なんですね。言葉を変えれば、あるべき人間像というのがあるように思います。

プラグマティズムだけじゃない認知行動療法の価値観

じゃあ、認知行動療法は完全なプラグマティズムなのかというと、お話を伺っていてちょっと違うように感じたんです。ここがつかめずにいるところです。

というのも、認知行動療法には科学的態度へのコミットがあるからです。やはり、規範がありますし、人間観がありますよね

だから、認知行動療法の価値観ってすごい謎で、興味が湧くんです。認知行動療法を受けると僕はどうなっちゃうんだろって思います。

「科学者であること」これが認知行動療法の治癒像のひとつであるのは納得がいきます。マインドフルネスがそうですが、自分をモニターすることの価値を認知行動療法は語ってきたと思うからです。

しかし、そのモニターの仕方は科学者なのだろうか?と疑問に思うところもあります。むしろ、チームの問題点を検証し、改善を提案する、有能なマネージャーではないかという感じもします。

とは言え、それは置いておいて、問題は小堀先生がおっしゃるように「内なる科学者」を作ることが認知行動療法の規範だとすると、それは生き方をどう変えるのかということですね。それはなんなのだろうって思うんです。だから、謎だと思いました。

おそらく、認知行動療法が研究を大事にするのと、「科学者であること」の価値は繋がっていると思うのです。もう少し小堀先生のお話を聴いて、考えさせてもらえたらと思います。

編集者雑感:

心理療法とヒーリングは何が違うのか?というところから始まったお二人の対談。第一部では、説明モデルの違いを通じて、ヒーリングと心理療法(特に認知行動療法)の違いが語られました。病の構造をどう見るか、そしてそれがクライエントにとってどれだけの説得力を持つか、というところに、入口の違いが存在するようです。さらに心理療法の出口とも言える「自立」をどう捉えるのか。

巷にあふれる多様な「心の治療」のあり方の後ろには、病についての「説明モデル」そしてそのさらに背後の「健康な人間観」の違いがあるということ。心理療法を受ける人にとっては、意外と意識されづらいところなのではないでしょうか。

第二部以降では、認知行動療法の成り立ちについてさらに深められていきます。認知行動療法が現代の心理療法として広く受け入れられた背景には、どんな「人間像」があるのか、現場と研究に身を置く臨床心理士たちは何を考えているのか、興味深いところです。対談第二部もお楽しみに!

対談の感想、ご意見、リクエストなど、お気軽にお送りください。こちらまでお待ちしています!

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