更新日 2024年08月25日 | カテゴリ: 自分を変えたい
「何のために生きるのか?」、「なぜ生きなければならないのか?」、「生きることに何の意味があるのか?」。これらは言わば人生の意味に対する疑問といえます。このコラムを読んでくださっているということは、あなたは多少なりともこういう疑問を抱いておられるのでしょう。
ですが、家族や友人と気軽に人生の意味について話し合うことができる人、そしてそれによって人生の意味に対する疑問が解消した人というのは、あまりいないのではないかと思います。日常生活で話すにはちょっと「重い」テーマですよね。
こういう問題にあまり関わり過ぎると変な宗教に騙されちゃうんじゃないか、と心配になる人もいるかもしれません。宗教は本来は人間の助けになるはずのものですが、現代の日本人にとってはちょっと怖いもの、あまり近寄らないほうが良いもの、という印象を持たれる方が多いでしょう。
かく言う私は10代の頃からずっと人生の意味に対する疑問を抱いており、大学では宗教学という学問を専攻しました。
人生の意味の答を求めて宗教に関心を持ったものの、一般的な日本人と同じく「何かの宗教を信仰する」ということにはどこか抵抗のあった私が出会ったのが、ヴィクトール・フランクルという心理学者(精神科医)であり、彼の創始したロゴセラピーでした。その後、紆余曲折はありましたが、大学院に進学して臨床心理学を学び、現在はロゴセラピーを専門とする臨床心理士(ロゴセラピスト)として、人が人生を意味あるものにするためのお手伝いをしています。
ロゴセラピーの立場からまず自信をもってお伝えしたいことは、「人生の意味について悩むことは決しておかしなことではない!」ということです。それは、人間だからこそ悩むことのできる最も人間らしい悩みである、とフランクルは言います。いかがでしょう?私の場合は、この言葉だけでもずいぶん救われた思いがしました。
「そんなことを考えてる暇があったらもっと働きなさい!」とか「え? そんなこと考えてるの? おかしいんじゃない?」などとは言われません。「うんうん、やっぱりそういうことって考えちゃうよね、人間だもの。」というのがロゴセラピーの基本的なスタンスです。
ロゴセラピーでは、意味を求める「意味への意志」こそが人間の最も根源的な動機であると考えます。簡単に言えば、人間にとって最も大切なのは「意味」だということです。「そんなことはない。私にとって一番大事なのはお金だ。」という人もいるかもしれません。
しかし、ではそのお金は何のためにあるのかを考えてみてください。お金は、家族を養ったり趣味を楽しんだり夢を叶えるための勉強をしたりと、人生を意味あるものにするための手段としては、確かに役に立ちます。しかし、お金は人生の意味そのものではありません。
失われた10年だ20年だと言っても、日本は経済的にはまだまだ豊かな国です。もしも経済的な豊かさが幸福に比例しているのであれば、日本人はみな多くの発展途上国の人々よりも幸せでなければなりません。
しかし、実際のところどうでしょうか? 日本の自殺率は減少傾向にあるとはいえ、まだまだ世界の中で高い水準のままです。仕事をすればそれなりに生きていくだけのお金を稼ぐことはできます。養ってくれる家族がいれば働かなくても生きることはできます。社会保障もそれなりに充実しています。
そんな今の日本では、「生きること自体」はそれほど難しいことではありません。しかし、だからこそ、「何のために生きるのか」という生きる意味を見つけることが難しくなっているように私は感じます。すなわち生きる意味が見つからないということは「意味への意志」が満たされていないということです。
生きる意味とは酸素のようなものだと私は思います。普通に呼吸をして生活しているときには、私たちは酸素のことなど気にもとめません。しかし、酸素が薄くなって苦しくなると、私たちは酸素が人間にとってどれだけ大切だったかに気がつきます。生きる意味を見失ってしまった人の苦しみは、そうでない人にはなかなか理解されません。
それでは、人生の意味とはいったいなんでしょうか?「人間は○○のために生きる」という○○にあてはまる正解を、ロゴセラピーは教えてくれるのでしょうか?実は、残念ながらそうではないのです(さんざん引っ張っておいて、すみません)。
ロゴセラピーの立場からは、普遍的・一般的な形で人生の意味とは何かを答えることはできません。例えば、チェスや将棋のようなゲームを考えてみてください。チェスや将棋で「一般論としての一番良い手」とは何かを語ることができるでしょうか。チェスや将棋では、刻々と盤面の状況が変わっていきます。「今のこの盤面の状況での一番良い手」ならば考えることができますし、むしろ重要なのはそっちです。
チェスや将棋の喩えと同じように、人生の意味というテーマに関しても、「人間は○○のために生きている」といった形で、全ての人間のどのような状況にも当てはまるような普遍的な「○○」を論じることはできない、というのがロゴセラピーの立場です。
だったらロゴセラピーなんて役に立たないじゃないか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私はそうは思いません。ロゴセラピーは、普遍的・一般的な人生の意味を教えてくれるものではありませんが、私たち一人ひとりが生きている「この人生」を「意味のあるものにする」ための方法ならば教えてくれます。
ここで少し「意味(名詞のmeaning)」という言葉と「意味のある(形容詞のmeaningful)」という言葉について整理しておきます。ロゴセラピーは一般論としての人生の「意味」は教えてくれないけれど、自分の人生を「意味のある」ものにする方法ならば教えてくれる、と述べました。
別の例で考えてもらいたいのですが、おいしい料理を作りたい場合に、「おいしさ」とは何かを教えてほしいという人はいませんよね。重要なのは(名詞の)「おいしさ」とは何かを知ることではなく、(形容詞の)「おいしい」料理を作ることです。寒くて凍えている人にとって大事なことは、「暖かさ」とは何かを知ることではなく、「暖かく」することです。
それと同じように、人生の意味に悩む人にとって大切なことは「意味」とは何かを知ることではなく、人生を「意味のある」ものにすることだと言えます。
さて、ロゴセラピーが教えてくれる人生を意味のあるものにする方法とは、どのようなものでしょうか? それは、「人生の意味とは何か」と問うことをやめ、自分が人生から「問われている」ことに気づき、人生からの問いに「答える」ということです。問うことをやめて答える。この抜本的な考え方の変化を、ロゴセラピーでは「人生の問いのコペルニクス的転回」と呼びます。
しかし、なんだかわかったようなわからないような話ではありませんか? 人生から問われているとはいったいどういうことでしょう? 人間と違って人生は生き物ではありません。人生に口があって言葉を話すわけではありません。人生さんと話したことのある人はいないでしょう。しかし、確かに人は人生の意味を問います。あれはいったい誰に対して問うているのでしょうか?
「コペルニクス的転回」とは、天動説から地動説への転回、すなわち180度すっかり向きを逆方向にすることです。人生に口があって問いを発するのかどうかはよくわかりませんが、少なくとも人生の意味に対する疑問を抱いていた人が、「何か」に向かって問いを発していたことは事実です。
コペルニクス的転回というぐらいですから、その「何か」から逆に自分が問われているということにしておきましょう。問うているのが人生なのか何なのかは、ひとまず置いておきます。要は、私たちは何かから問われており、それに答えなければいけないらしいということです。
ではいったい「答える」とはどういうことでしょうか? どうすれば私たちはその問いに答えたことになるのでしょうか? ロゴセラピーの考え方によれば、「人生からの問いに答える」とは、「今この瞬間の状況において、最も意味のある行動を選択する」ということです。
例えば、駅のホームを歩いていて目の前で人が線路に転落したという状況があったとしましょう。この状況では、どうすることが最も意味のある行動でしょうか?勇気があれば自分も線路に飛び降りてその人を救いあげることができるかもしれません。
そこまではできなくても、急いでホームに設置されている列車の緊急停止ボタンを押すことはできるかもしれません。大声で駅員さんや周囲の人に助けを求めることならできるかもしれません。そうやって一人の人間の命を救うことができたなら、その行動にはなんと意味があるでしょうか。しかし、その状況で落ちた人を助けるのではなく「見て見ぬふりをする」という行動を選択することも、私たちには可能です。自分が助けなくても他の人が助けるかもしれません。落ちた人が自力で這い上がってくるかもしれません。自分がぶつかったり突き落としたりしたわけではないのですから、別に自分が助けないといけないという決まりはないはずです。
線路に落ちた人を助けるという行動と助けないという行動、私たちはそのどちらを選択することも可能です。しかし、どちらの行動により意味があるか、どちらが「人生からの問い」に対してより正しく答えているか、その答は明らかでしょう。
ほぼ全ての人が「助けることに意味がある」と答えるのではないでしょうか。しかし、どうして私たちは、ある行動と別の行動を比較して、どちらの行動に「より意味があるか」がわかるのでしょうか。
ロゴセラピーでは、人間には良心が備わっているから、その状況で自分がどうすることに最も意味があるかを認識することができる、と考えます。人間の目が光を感知し、耳が音を感知するのと同じように、人間は良心によって意味を感知することができる、というのがロゴセラピーの考え方です。
ただしこれは生物学的な話ではなく、あくまでも良心というものどう捉えるかというイメージの話です。さて、それでは、もし人が良心に反した行動をとるとどうなるのでしょうか? 別の例で考えてみましょう。
私は学生で、テストを受けています。しかし、勉強を怠けていたせいで全くわかりません。このままではひどい点数になってしまうでしょう。そんなとき、勉強が得意な前の生徒の答案が自分の席から丸見えだということに気がつきます。先生はこちらを見ていません。チャンスです。それを写せば、私は高得点をとることができるでしょう。
この状況では、どのような行動の選択肢が存在するでしょうか? その中で、良心が指し示す最も意味のある行動はどのようなものでしょうか?
話を単純化すると、この状況では前の生徒の答案を写す(カンニングをする)という行動と、自力で頑張る(カンニングをしない)という行動という二つの選択肢があります。
しかし、もしカンニングをして良い点数をとったとしても、そんな風にしてとった高得点には何の意味もないということは、私自身が一番よくわかっています。自分がカンニングをしたことが誰かに見られていたのではないか、陰で噂をされているのではないかと、良心の呵責に苛まれ、心が休まるときはありません。
このように、私たちは良心によって、今どうすることに意味があるか、逆にどうすることには意味がないかを感じとることができます。ただし、良心によって感じとることができるのは、あくまでも自分が今置かれている「状況における意味」です。
そして、このような「状況における意味」の積み重ねが次第に「人生の意味」になってきます。もしも意味がないと自分でわかっている行動の選択を繰り返していけば、その人の人生は罪悪感や空虚感にまみれたものになります。
それに対して、その都度の状況において良心が指し示す最も意味のある行動を選択することによって、充実感や充足感が感じられます。その小さな一つ一つの行動選択の積み重ねが、自分が生きていることには確かな意味があるという感覚につながっていくのです。
これまで書いてきた通り、ロゴセラピーでは良心に従うということを重視しています。なぜなら、良心は意味を認識する器官であり、人生を意味あるものにするための羅針盤のような役割を果たしてくれるからです。おいしい料理を作るために頼りになるのは自分の舌の感覚ですが、意味ある人生を送るために頼りになるのは自分の良心の感覚です。
ところが、私たちが生きていくうえで良心以外に行動選択の指針としがちなものが二つあります。一つは自分の欲望、もう一つは他人の目(人からどう思われるか)です。人間が良心ではなく欲望に従って生きていくとどうなるでしょうか。最近は「自分がやりたいことをやることが大事」ということがよく言われます。この意見には私も概ね賛成します。ただし、「やりたいこと」と言った場合に、それは良心のレベルでのやりたいこと(この場合は「信念」と言っても良いかもしれません)なのか、欲望のレベルでのやりたいことなのか、この二つを区別する必要があります。
例えば、今の仕事を辞めて自分の夢を追いかけたいという場合を考えてみましょう。家族や友人は「もったいない」、「リスクが高い」などと言うかもしれません。
しかし、そうしたメリットもデメリットも全て理解と覚悟をしたうえで自分の良心(信念)に従ってその道を選択するのであれば、後で後悔することもないでしょう。たとえうまくいってもいかなくても、「あの時この道を選んだことには意味があった」、「これが私の人生だ」と思えるはずです。失敗したことを他人のせいにしたり世の中のせいにしたりすることもありません。
同じように「やりたいこと」と言っても、アルコール依存症で治療中の人が「お酒を飲みたい」という場合はどうでしょうか。これは単なる欲望のレベルでのやりたいことです。もちろんそこで欲望に従ってお酒を飲むという選択をすることも可能ですが、ここで一時的に欲望を満たしても意味がないことは当人が一番よくわかっているはずです。
そのような行動の選択をしていると、結局あとで後悔することになり、自己嫌悪に陥ったり、自分の存在の価値を感じられなくなります。また、欲望は一つ満たせばまた次の欲望が生まれてくるという性質を持っています。欲望を満たすことによって幸福になろうとする生き方は、自分の鼻先にぶらさげたニンジンを追い続ける馬のようなもので、いつまで経っても満たされることがありません。
欲望に従った生き方は、あくまでも自分の利益や快楽を目的とした「自己中心的」な生き方です。それに対して、良心に従った生き方は、もちろん自分の利益にもなる場合はありますが、それだけではなく自分以外の誰かや何かのためにもなる「自己超越的」な生き方だと言えます。自己中心的ではなく自己超越的な行動の選択をすることが、意味のある人生のための大切なポイントです。
自分以外の誰かや何かのためとは言いましたが、だからといって「人からどう思われるか」を行動の指針にするのも空しい生き方です。20世紀の欧米社会に生きたフランクルは、人生を意味あるものにするために自己中心的な生き方ではなく自己超越的な生き方をすることを強調していました。
しかし臨床心理士としての私の経験では、21世紀の日本社会で悩みを抱えて生きている人の中には、欲望まみれの自己中心的な人よりも、必要以上に他人の目を気にして自分を殺してしまっている人のほうがずっと多いような印象があります。人から変に思われないように、場の空気を壊さないように、目立たずみんなと同じように生きていれば「無難」です。しかしそれはもう少し強い言葉で言えば「保身」にすぎず、自分が生きる意味は感じられません。
もちろん私はわざと人から変に思われるような行動をとることを勧めているわけではありません。良心に従った意味のある行動と他者から評価される行動とは、たいていの場合には一致するでしょう。
しかし、たとえ場の空気を壊したとしても、ここぞという場面では言うべきことを言ってやるべきことをやる、そうすることに意味がある、という局面は存在します。それは非常に勇気のいることですが、後になって「あのとき勇気を出していれば…」と後悔することにならないよう、人生を意味あるものにするための行動指針は、あくまでも他人の目ではなく自分の良心なのだということを意識しておく必要があります。
長い人生の中で、私たちは意識するしないにかかわらず、無数の行動選択を行っています。全ての瞬間の全ての行動を良心に従って選択するということは、現実的には不可能でしょう。私自身もそのようなことはできていませんし、ロゴセラピーの創始者のフランクルも、「私は自分の原則にいつも忠実に生きてきたわけではない」と述懐しています。
人生のあらゆる瞬間のあらゆる行動選択を良心に従って行うことは理想ではありますが現実的ではありません。しかし、良心に従った選択ができなかったと落ち込んでいる暇はありません。なぜなら、ある行動を選択した(もしくはしなかった)次の瞬間には、もう次の行動選択の機会がやってきているからです。
意味のある行動の選択ができたときもできなかったときも、チャンスは常に次から次へとやってきます。どんなに良い一日でも嫌な一日でも、一晩眠ればまた同じように太陽が昇って新たな一日が始まるということと少し似ているかもしれません。
ですから、人間は死の間際まで、人生を意味あるものにするチャンスに恵まれているのです。これまで自分の欲望や他人の目に従った行動ばかりしてきて自分の生きる意味がわからなくなってしまったという人でも、明日から、いえ、今この瞬間から、自分の良心に従って生きていくことが可能です。「生きていく」ことはちょっと大変かもしれませんが、少なくとも、自分の良心に従って「生きていこう」とすることは可能です。
ここまでの話で、なんだか道徳のお説教のようだな、と思われた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ロゴセラピーはただの心理学(哲学的要素を多分に含んではいますが)であり、道徳ではありません。
私自身も自分が道徳的な人間であるとは思っていませんし、相談に来られる方をロゴセラピーで道徳的な人間にさせようだなんて少しも思っていません。この点について、誤解のないように補足しておきます。
「このように生きなければならない」と言うつもりは私にはありません。人生を意味あるものにしようとしまいと、欲望に従おうと他人の目に従おうと自分の良心に従おうと、それはその人の選択です。私は決して、良心に従って生きている人間のほうが欲望に従って生きている人間よりも偉いとか価値があるとか、そのようなことを言いたいわけではありません。
ロゴセラピーは「人間は自己超越的に生きなければならない」というお説教ではなく、「人間は本質的に自己超越的な存在である」という人間観と「人間は自己超越的に生きたときに生きる意味を感じられる」という心理学的知見をお伝えしているにすぎません。その考え方を受け入れるかどうか、そしてそのように生きようとするかどうかは、完全にその人次第です。
しかし、この長い文章をここまで読んでくださったということは、あなたはやはり人生を意味あるものにしたいと願っているのではないでしょうか。もしそうであれば、騙されたと思ってしばらく(試しに1か月ぐらいどうでしょう?)良心に従った自己超越的な行動の選択を意識してみてください。
きっと、今までとは違った充実感が感じられると思います。それは別の言い方をすれば、自分が自分の人生の主人公であり、本当の意味で自分の人生を生きているという感覚です。あなたは自分の欲望の奴隷ではありません。他人からの評価を気にして他人を喜ばせるために存在する操り人形でもありません。自分の意志次第で人生を意味のあるものにすることができる、自由と責任をもった人生の主人公なのです。
ここに書いたことは、膨大な(そして難解な)ロゴセラピー理論のごく一部を、現代の日本で生きる意味に悩んでいる人へのメッセージとして、私なりの解釈とともに記したものです。
ロゴセラピーには、人生を意味あるものにするためのヒントがまだまだたくさん詰まっています。ご関心のある方は、ぜひ下記の本をお読みいただいたり、研究会やゼミナールなどにご参加ください。人生の意味について真剣に考えている人たちとの出会いが待っています。
『それでも人生にイエスと言う』 著:V.E.フランクル 訳:山田邦男・松田美佳 (春秋社)
『ロゴセラピーのエッセンス 18の基本概念』
著:V.E.フランクル 訳:赤坂桃子 解説:本多奈美・草野智洋 (新教出版社)
『夜と霧』
著:V.E.フランクル 訳:池田香代子 (みすず書房)
『人生があなたを待っている』
著:H.クリングバーグ,Jr. 訳:赤坂桃子 (みすず書房)
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